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E・レヴィナス『存在の彼方へ』における"inconfortable divin"についての一考察

存在の彼方ヘ (講談社学術文庫)



 最近、最も尊敬している内田樹先生にまた影響を受け、レヴィナス関連の本をまた読み返している。

 私はこの内田先生の本を読んで、当時大学生だった自分と全く関係ない専攻の大学院に進むまでに至るほど、人生をガンガンに動かされたものだ。

 社会人4年目も終わりそうな頃に、ふと内田先生と、大学院時代にひたすら読み込んだレヴィナスにまた惹きつけられた。

 自分の本棚の前に立ち、何冊も残っているレヴィナスの本をめくる。

 そうすると、たくさん線が引かれてあり、自分のコメントも書かれてある。

 「しっかり研究したんだな…」

 と、振り返って思う。

 レヴィナスを読んで読んで読み込んで、意味が全く分からないところも多かったわけだが、分からなくてもなんだか「分かる」というところもあった。

 それは、私が修士論文で主要文献として扱った『存在の彼方へ』(正式には『存在するとは別の仕方で、或いは存在の彼方へ』)での一文だ。

 どんな一文だったが正直な話ハッキリとは思い出せず、探してもその箇所がなかなか見つからなかったのだが、 こんなようなことが書いてあったのだ。

 

「有責性とは、神的なまでに素晴らしい居心地の悪さ(inconfortable divin)のことである。」

 

"inconfortable divin" は、合田正人訳では「神的な居心地の悪さ」と訳出されているが、私が修士論文を書いた時は意訳をして、「divin」の部分を肯定的に捉えた。

 というのはキリスト社会でもユダヤ社会でも、或いはどこの社会でも神は崇められ、尊重される存在であり、「神的な居心地の悪さ」と訳すと、神は居心地が悪い存在ということに解釈され、それは神を否定することに等しく、どうあっても神は肯定的な存在であるべきだと私は考えたからだ。

 しかし、なぜレヴィナスは責任があるということが「神的な居心地の悪さ」と言うのだろうか。

 別のところでレヴィナスはまた「有責性は栄光(gloire)」と言っている。

 有責性を抱えているということは、「私は私がなすべきことがある。それは他の誰にも取って代わられるものではない。」ということであろう。

 この私(Moi)こそが、有責性を果たす者だ、ということなのだろう。

 そうであるからこそ、それは世界でただ1人の存在になり得るということだ。

 これがつまり、レヴィナスがいうところの神的(divin)という意味なのではないだろうか。

 また、それは居心地が悪いということだが、これは一般的に考えても分かるだろう。

 有責性が他の誰にも責任転嫁できず、自分自身が何としてでも果たさなければならないというものであるということは、時と場合によってはあまりにも大きすぎるプレッシャーだろう。

 その「居心地の悪さ」によって人は壊れるということも十分にあり得る。

 しかしレヴィナスは有責性の居心地の悪さについて、神的なまでに素晴らしい(divin)という形容詞をつけているではないか。

 ここが勘所であろう。

 inconfortableであることを寧ろ喜び、それは実のところ神的なまでに素晴らしい(divin)ものであり、有責性を果たしていくことに、不完全な人間としての自己が、完全な神に一歩一歩少しづつ近づくことが可能となり、そうであるからこそ他者のために(pour l'autre)を果たすことがまた可能になってくるのではないだろうか。

 他者からの有責性をこちらがコントロールすることは不可能であり、それは「果たす」か「無視するか」しかない。

 では、「果たそうとして果たせなかった」という場合はどうなのだろうか。

 これについてはその時の有責性は一旦姿を消すも、時空を超えて別なシーンで他者の「顔」(visage)を目の前にした時、つまり新たな有責性が誕生した時に、その有責性は過去果たせなかった有責性のファクターを部分的に有しているものとして現前するものではないかと思われる。

 有責性は罪悪感ではない。

 「神的なまでに素晴らしい居心地の悪さ」であるため、それは「この私」にとって「良い」ものでしかない。

 ここでの有責性は、「この私」を

『次こそは!』

 と、奮い立たせるものになる。

 つまり、有責性は変わらず居心地の悪いものには変わらないが、質が変形された形で訪れるものだ。

 そしてそのような形の有責性は「この私」を心身共に鍛えさせるものとなり、ひとつ超越的なもの、完全に近いもの、それつまり「神的なもの」に近づくことである。

 

 だからこそ、レヴィナスは有責性を「神的なまでに素晴らしい居心地の悪さ」と形容したのではないだろうか。